~ おやすみなさい ~




テレビの上の壁に掛けられた時計が、夜の9時を知らせる。日向家の子供たちのうち、小さい二人はもう寝なければいけない時間だった。長女の直子は保育園の4歳児クラス、三男の勝は1歳児クラスに入っていて、明日も園に行かなければならない。

「直子、勝ー。歯を磨いた?仕上げ磨きしちゃおう」

そう声をかけられると、幼い子供たちは競うようにして母のところに行き、その膝の上に寝転がる。

「あーん」
「アーン」

しゃかしゃか。

「次、イーね」
「イー」

くしゅくしゅ。

幼児向け番組の「歯磨きの歌」を母親が歌ってあげると、キライな筈の仕上げ磨きも楽しいのか直子も勝も大人しくしている。

小次郎は家族の平和なひとときを背中に感じながら、台所で食器を洗っていた。

外での仕事を終えてからも、保育園へのお迎え、園から持ち帰った荷物の片づけ、夕飯の準備、お風呂、小次郎と尊の学校の宿題のチェック、お便りプリントのチェック、洗濯に掃除、場合によってはアイロンがけや裁縫・・・いくらでも母親にはやることがある。それを分かっているから、小次郎は自分にできる手伝いは何でもするようにしていた。

「にいちゃん、ぐちゅぐちゅぱーさせてー」

仕上げ磨きをしてもらった直子と勝が台所にやってくる。勝はどうしたってシンクまで首が届かないから、小次郎は抱っこして口をゆすがせてやった。

「にいちゃん、おやすみー」
「おやしゅみー」

直子と勝が手振りで「かがめ、かがめ」と指示してくるので、小次郎は食器洗いを一旦中断し、二人が望むとおりにその場に腰をかがめた。
その小次郎の頬に、直子がちゅ、とキスをする。続いて勝も同じようにちゅ、と可愛らしく。紅葉のような小さな手を添えて。

小次郎は微笑んだ。歯を磨いたばかりの直子たちの唇はひんやりとして、それでいて柔らかくて気持ちがいい。可愛いな、と思う。「にいちゃんもー!」とねだられたから、お返しに頬にキスを与えて、二人の頭を撫でてやった。それから「おやすみ。ちゃんと大人しく寝るんだぞ」と言って寝室に向かわせる。

実のところ、直子も勝も保育園で十分に昼寝をしているので、21時を過ぎたくらいではまだ眠そうではなかった。よっぽど小学1年生の尊の方が、この時間になると眠そうだと小次郎は思う。

「直子、勝。早く寝るぞ」

それでも直子と勝を寝かしつけるのは尊の仕事だった。二人が寝付くのを見守る必要はないが、とりあえず布団に入るところまでは見張る。それが母親と小次郎が尊に課した仕事だった。

「尊もそのまま寝ちゃえ。お前も眠そうだ」
「うん。でも、まだしたいことあるから・・・もうちょっと起きてる」

尊は直子と勝を布団に押し込むべく、手を引いて連れていった。











「母ちゃん、今日は何時ごろに寝れそうなの?」
「んー。小次郎が手伝ってくれたから、あと軽く掃除して、洗濯物を干すくらいかな。ありがとね。ほんと助かる」

翌日の保育園に持っていく荷物のチェックは小次郎が終わらせた。尊のランドセルの中身も、忘れ物がないか連絡帳と比べてチェックした。自分の時間割は自分がちゃんと揃えたから大丈夫、と頷く。自分はもう5年生なのだから、自分のことは自分で出来て当然だし、幼い弟たちの面倒を見るのも当たり前だと小次郎は思っている。

それでも、母親が褒めてくれたり、「ありがとう」と言ってくれるとやはり嬉しい。へへ・・と笑う長男を、母親はそっと抱きよせた。

「さあて。君もそろそろ寝なくちゃいけない時間なんだけど・・・小次郎くん。その前に母ちゃんに教えてくれるかなあ?」
「んー?何?」
「学校は毎日、楽しいですかあ?今、困っていること、悩んでいることは無いですかあ?」
「えー、またそれ聞くの?」

母親の腕の中で居心地悪そうに身を動かし、不平を漏らしつつも小次郎は律儀に答える。

「えっと・・・学校は楽しいし、困ってることも別に無いし、悩み事も無いよ。・・・敢えて言うなら、若島津からゴールがなかなか奪えないこと、くらいかなあ」
「それだけ?」
「うん。そんくらい。だってあいつ、ほんとに嫌になるくらい俺のシュート止めるんだ」

小次郎の答えを聞いて、母親は「この子らしい」と笑い、同時に安心する。息子が一つだけ挙げた悩み事が、同じサッカークラブに所属する友達からゴールを奪えないことだなんて。
何よりも順調に日々を過ごすことが出来ている証拠だと思う。母親はあらゆる人に感謝したくなる。


これは定期的に行われる、母親と小次郎の二人の大事なルーティンだった。

頑張りすぎる日向家の長男は、「何か問題ないか」と聞かれない限り、もしくは聞かれたとしても、おそらくは弱音を吐いたりしない。特に弟や妹がいる前でならば、『絶対に』と言っていいだろう。
それが分かっているから、母親は二人になった時に改めて聞くようにしている。学校で困ったことはないか、悩み事はないか、辛いことはないか、と。

息子が、たとえば理不尽な暴力を学校で受けているとして、黙って耐えるようなタイプであるとは思っていない。けれども子供の虐めは執拗で残酷だ。大人には見えないところで繰り返し続けられる暴力は、やがてそれを受けている子供から気力を奪い、抵抗することも、逃げることも出来なくする。やがては生きる力、命までをその子から浚っていくのだ。
そして皮肉なことに、そうされている子供は誰よりも、親に隠そうとする。自分が辛い目にあっているということを。


だから母親は、小学5年生という難しい年頃にさしかかった息子に定期的に尋ねる。聞いたところで、この子供が自分を心配させるようなことを言う筈がない・・・と思いながらも、何か問題を抱えているなら、分かる筈だと信じている。質問をした時から答えるまでの間の取り方、態度や声、なにかしらに兆候が現れる筈だと。


それに母親が心配しているのは、何も学校のことだけではなかった。アルバイトまでさせて、無理を強いているという自覚はある。情けない親だと自責の念もある。

だけど、助け合わないと生きていけないのだ。自分たちは。この家族は          



母親は息子の体に軽く回していた腕を解いた。こうして向かい合っても、それほど視線が下を向かなくなったことに気が付く。見上げるようになるのも直だろう。そうなればもう、こんな風に抱かせてはくれないのだろうか。それは少し寂しいと思うけれど、でもこの子はとても優しい、いい子に育っている。何の不満も無かった。

「上出来、上出来。・・・さあ、小次郎も寝ようか。おやすみね」
「ん。・・・おやすみなさい」

小次郎は母親に就寝の挨拶をして居間を出た。さすがに幼い頃にしていた、母親へのキスはもうしない。母親も強要したりはしない。
家族にはそれぞれの役割がある。「愛される小さな子」の役はとっくの昔に直子や勝に譲り渡したのであり、自分はもう、家族を支える母の同志なのだ・・・という自負が小次郎にはあった。











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